
私はノスタルジー大好きっ子なのだが、これは「ん?」と思った。なんかちょっと違う気がする。
ノスタルジーが屈折して違う方面に向かっているような。
ラストの場面、コンサートで語るオーケン、ラバーソールを買ってとねだる中年のコマコ。
自分の青春を翻弄して流し去ったバンドブームを振り返り、そこになんとか意味を見つけて、もう一度前向きに進む力にする――というメンタリティーがあまりに寂しすぎる。ブースカを背負ってステージで歌う現在のオーケンの「ちょっと見ていられない痛々しさ」に似たものを感じるのだ。
「大人は汚ねぇよ!」と当時のバンドマンの気持ちを今さら代弁してもいいし、架空の彼女コマコとのエピソードでわざとらしいセピア色に塗りたくってもいいし、感慨たっぷりの自伝小説世界を繰り広げてもいい。とにかく「バンドブームの時代」単体でキラキラした物語を見せてほしかった。
過去の思い出を連れてきて無理やり未来のビジョンに挿げ替えるような、自己洗脳的でライブ感の無い青春小説になっている気がしてなんだか悲しい。これでは青春を一度すっかり切り離してしまったオジさんの回春小説だよ。寂しいよオーケン。

シリーズ完結編。基本的にどのキャラクターも大好きだったので(柴崎の出来る女っぷりはイマイチ気に食わなかったけれど)終わってしまうのが惜しい。今回は東京都心〜大阪大移動のバタバタもスリリングで楽しいけれど、やっぱり郁と堂上のじれったい関係に決着がついたことでしょう!エピローグで郁が堂上のことを「篤さん」と呼んでいる場面にニヤリング。最高の終わり方でした。
しかし作品全編を通じて取次の出番ほとんど無しという不遇ぶりには泣いた。「メディア良化法」が出来たら襲撃されそうなのは書店じゃなくてまず版元か取次じゃないの?発行は止められないけれど配本させなきゃいい、というなら取次に圧力かければいいんだし…と無粋なツッコミをしたくなったけれど、メディア良化委員会の襲撃をかいくぐってN販やTーハンやO阪屋のトラックが全国を走り回る姿を想像したらなんだかカッコいい感じだったので満足した。
昨年の漫画化に続いて、ついに4月からアニメ放映決定らしい。これだけハードカバーで貢がせておいて今さらアニメ化とは。だったら初めから電撃文庫で出してほしかったよ…。
読んでいるときは郁の脳内イメージがパトレイバーの野明、堂上はハガレンのロイだった。アニメ公式サイトを見ると全然違っているものの、これはこれで納得。でも柴崎と手塚だけ、なんだか違和感あるんだよなー。

変体少女文字とは、ルリール体とかマンガ字とか呼ばれる、いわゆる丸文字を指す。本書では熊本で心中した少女の遺書が丸文字で書かれていたことの紹介から始まり、ラブホの落書きノートや直指庵のメッセージ帳を調べたり企業の人事担当に聞き取り調査をしたり、さらには水森亜土の連載コラムやみつはしちかこの漫画、サンリオのファンシーグッズまで色々な方面に丸文字のルーツを求めてゆく。
読み物としてはとても面白いのだが、構成がちょっと恣意的というかズルい。水森亜土もみつはしちかこもインタビューで自分の作品と変体少女文字の氾濫は結びつかないと話しているのに、それを基本的にすっぱり無視して話が進んでゆく。結局最終章で筆者は自分の理解できないものをひとくくりにまとめてしまっており、先に結論ありきの研究だったんだなあという印象を受ける。考察としては間違っていないのだろうし、実際流行のルーツとしてはそのへんのところが真相なのだろうけれど、この無駄にしっかりした規模で行われた研究は単に世間的、常識的な連想に説得力を持たせて補強しただけであって、ここまで綿密な調査をしているというのに非常にもったいない結論に落ち着いている。著者は1947年生まれだそうだからこの本が書かれた1986年はそれほどの歳でもないはずなのだが、やや世代論に依りがちな感があって私は今ひとつ馴染まなかった。
丸文字が全国的に流行したのは70年代から80年代前半にかけての時代だそうで、この本に出てくる「丸文字を書く最近の少女たち」というのも昭和50年代の少女さんたちを指している。私が生まれたのは1983年だからその頃にはいい加減ピークは過ぎていたようだが、小学校低学年の頃クラスで丸文字が使われていたのでまったく訳のわからん過去の文化というわけでもない。もっとも、本書にサンプルとして挙がっている文字と私たちの丸文字とはやはり少し違っている。分かりづらい例えかもしれないけれど、この本で挙げられている丸文字はわかつきめぐみがコミックスで4分の1スペースに書いていた文字に似たかんじで全体的に小さくておとなしいのに対して、私たちがよく書いていたのはもっとマスラオぶった荒くれた丸文字だった。時代を経て多少のアレンジが加わっていたのか、中高生の使う文字を真似しきれていなかっただけなのか。
ともあれ丸文字は小学生当時の私の周囲ではまだまだ現役で活躍しており、私自身、頭の悪そうな男子の書くいびつな文字よりもノートのマス目にぴったり収まる丸文字のほうが断然好みで、自分でもよく真似して書いていた。「へ」の右端に「〃」みたいなのを付けたり。(今でも「さ」の字を無意識に2画で書いたりするのはその名残かなと考えたけれど、これは教科書で使われる学参フォントよりも本に書かれる明朝体に親しんでいたせいのような気がする。)丸文字を書く子は大多数が「本気の文字」も書ける子で、場面によって使い分けていたのもこの本の調査結果と共通している。あと余談ながら松岡の書く文字は今でも非常に丸まっちいけれど、あれはもはやファンシーとかいうレベルではなく筆圧が異常に強くて鉛筆の折れた跡が残っていたりするパーソナルフォントなので正調丸文字とはまったく別の存在である。
三浦の小学校で私が触れていたこの丸文字文化はブームの最晩年だったのか田舎の学校特有の時間差的流行だったのか、それとも「きんぎょ注意報!」あたりと一緒にやってきた全国的丸文字リバイバル現象だったのか分からないけれど、中学で男子校に入り男汁にまみれているうちに丸文字は社会からきれいに駆逐されていた。いま会社で同年代の女の人が書いた文字を見ると、「長体ヘタウマ文字」と呼ばれる(このネーミングには椎名誠的な昭和のセンスを感じるなあ)長細くて風になびくような文字がとても多い。しかしこれも世代特有の流行であるようで、現在大学生の妹の文字はまた違った何ともいえない形状をしている。結局のところ、縦書き文化の破壊だとか没個性化だとかいう警笛指摘は昔から言われている「最近の若者は…」の類いのたわいない愚痴で、今はまた文字じゃなくて別の何かが叩かれたり嘆かれたりしているんだろう。
(「日本人が下の世代になるほどアホ化している」というのはまた別の問題で、文字うんぬんよりもっとマクロな範囲で深刻な問題だと思う)
※懐かしい話
本文中でも登場する、サンリオに代表されるイラストのついたメモ帳やミニノートは私が小学校低学年の頃(90年代前半)は丸文字よりさらに身近だった。安くて可愛いので、クラスメイトの誕生日会に呼ばれたけれど気の利いたプレゼントが思いつかない場合などに重宝した覚えがある。けれどこれらのファンシーグッズが実際に使われる場面というのはあまり見なかった。授業中に手紙が飛び交うなんてこともほとんど無かったように思う。
男子の間でも似たようなファンシーグッズ文化はあって、エスパークスというシリーズがさんざん流行ったけれど、ノートというよりは明らかに漫画であり鉛筆というよりは露骨にサイコロだったのでまもなく学校に持ってくるのを禁止された。


