200803

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三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

『三月は深き紅の淵を』という架空の本をめぐる4つの短編。

第一章の中で語られている作中作『三月は深き紅の淵を』のあらすじは、
 第一部は4人のよく喋る壮年の男女が旅をする話。
 第二部は失踪した恋人を、主人公の女性が恋人の親友と探す話。
 第三部は少女が生き別れになった腹違いの兄を探す話。
 第四部はある物語作家が小説を書くところを一人称で描いた話。
第二章の中でも同じような紹介がされている。細かいディテールが少し違っているのはわざと正体をぼかすためだろう。
そしてこの作中作になぞらえる形で、『三月は深き紅の淵を』の各章に似ているようで異なる4つの物語が描かれている、それがこの作品である。

4つの章を通して読むと作中作『三月は深き紅の淵を』の形がはっきり見えてくるどころか、かえって漠然としたものになってしまう。何か大きな建物のまわりをぐるぐると回っているような、全貌をつかんだようで一向に正体のつかめない、靄のかかったような小説である。

残念なのは、これら4つの章をまとめた実際の『三月は深き紅の淵を』が、作中で言われているほどの作品になっていないことだ。
作中で登場人物たちに語られている、
「素晴らしい作品。誰もが魅きつけられる小説。こうして話を聞いているだけでも、とっても読みたくなる。」(第1部)
「確かに、妙に残る話であることは認めるわ。決して傑作ではないけれど」(第2部)
「本を閉じたあとも本の外に地平線が広がり、どこまでも風が吹き渡るような話。目を閉じれば、モザイクのようにきらきらした断片が残像のように脳裏に蘇る話。愛と人生の謎が秘められた、持った瞬間にずしりとした重さを感じる果実のような物語。」(第4部)
という形容に、どうも「外の4部作」は見合っていないような気がするのだ。

しかし、アイデアオチの実験小説まがいの作品か、というと決してそんなことはない。読者は外側の物語を追いかけながら内側の物語を想像しようと試みて、でも小説の構成は入れ子のようでありながら内容は作中作を完全になぞっているわけでもなく、内側の四部作をつなぐ共通のキーワード「ざくろの実」、同様に外側の四部作をつなぐ「小泉八雲」、さらに作中にちりばめられている小さなネタや嘘か本当か分からないような話、これらを考えているうちにとりとめもなくなってきてお酒を飲んで寝てしまう、そんなぼんやりした快感こそまさに読書の醍醐味。本が好きな人を幸せにしてくれる本だと思う。
漢方小説 (集英社文庫 な 45-1) (集英社文庫 な 45-1)

ストレスで、いや、そう簡単に片付けられない色々な辛い出来事の積み重ねで心身のバランスを崩した三十路女の、色気があるようでないような日常がくたくたと続いて、最後ちょっと立ち直る話。文章は軽妙でさくさく読める。
世間に対してやたら辛口な主人公が良くも悪くも等身大、ステレオタイプの三十路女で、親近感は湧くのだけれど読んでいてあまり気分が良くない。主人公がいろいろ辛くなるたび、空気の読めない中年男やうつ病の友人などが絶妙なテンポで紹介される。私の周囲はこんなに最悪で、だから私は参っちゃったんだよ。友達も似たような感じで困ってるし――という感じで。

しかし、それにしても主人公。辛いのは分かるのだけれど、「訪ねた病院はどこもまともに診断してくれなくて、しかも新米医師で話にならないこともあった」り、「書いた脚本(主人公はシナリオライターなのだ)が期待を持たされた挙句に没になって、しかもその理由が業界の下らないしがらみだった」りと、エピソードごとに悪印象の描写が二重三重の構えでどうにもしつこい。いかに世間が自分に無理解であるか、という描写が過剰でなんだか不幸自慢みたいになっており、そんなに被害者ぶらなくても、と思ってしまう。
貶し方がしつこければ褒め方もまたしつこくて、
「空気の読めない男ども ⇔ 私の辛さを分かってくれる漢方の先生」
「対症療法ばかりで役に立たない西洋医学 ⇔ 私の不調を認めてくれる東洋医学」
「抗うつ剤に頼ってなんだかヤバそうな友人 ⇔ 体にやさしい漢方の薬で癒してる自分」
…といちいち極端な反対例を持ってくる論法にいかにもオバさん的なまわりくどさを感じてしまい、馴染めない。

感じのいい先生に「あなただけの病気です」なんて言われた瞬間、心の拠り所が見つかった気になって漢方信者一直線なのも、実際はどうだか知らないけれど、あまりに典型的な三十路女のイメージ通り。
同じように困っているお年頃の女性たちよ、心の平安を取り戻す自分なりの方法がきっとあるはず!だから大丈夫だよ!という話。
全体的にちょっと待った、と言いたくなるような思考回路だけど、何だかんだで最後はしっかり心の平安を取り戻す主人公はさすが。
しかし本当にこういう女性って多いのだろうか。主人公が必要以上にナイーブで文句の多い人なだけのような気がする。主人公がすごいのか女性全般がすごいのかは実際謎である。


…戸川純「玉姫様」を聴きながらこういう女性特有の心のようすを揶揄するようなことを書くのは、ちょっと悪意的で良くない気がする。
たったひとつの冴えたやりかた (ハヤカワ文庫SF)

タイトルはよく聞くけれど中身を知らなかったので、恥ずかしながら今さら読んでみた。
確かに面白いのだが、「メッセージ・パイプ」「睡眠カプセル」などSF用語満載の世界にどうしても付いていけない部分がある。作者(訳者)のオリジナル科学技術や未来世界設定が出てくるとなんとなく醒めてしまって、どうも私はSFというものを本質的な部分で楽しめていない気がする。

『耳をすませば』で雫が言っていた、
「本を読んでもね、このごろ前みたいにワクワクしないんだ。こんなふうにさ、うまくいきっこないって心の中ですぐ誰かが言うんだよね…。」
という感覚に近いかもしれない。うまくいきっこないというのとは違うけれど。「常識的にどうなのそれ?」の「常識」の部分から作られてしまうとなんだか困惑してしまうのだ。
(第三話『衝突』のジールタン視点の箇所は作者がその感覚をうまく逆手にとっている。ここだけは文句なしに面白かった)
ともかく私はSFを読むための想像力が足りないと思った。

同様に外国文学より日本文学、時代モノより現代モノが好きなのも、単に想像力を必要としない方向へと向かっているからであって、もしかすると私が国文学科に進んだのは自分に想像力が無いための消去法的選択だったのだろうか。